お寺へ行った。

病気平癒で知られる、山あいの静かなお寺だ。

目の前には田んぼや畑が広がり、季節になると、刈り取った稲を焼く煙が風に乗ってゆっくり流れていく。

その景色を眺めていると、子どもの頃、祖父母の家から帰る夕暮れを思い出す。

便利さも派手さもない。
けれど、時間までゆっくり流れているような、そんな心地よさがあった。

しばらく景色を眺めたあと、境内へ向かって歩き出した。

階段を上ると、小さな休憩所がある。
椅子とテーブルが並び、参拝客がひと息つける場所だ。

ここには、猫好きの間で少し知られた存在がいる。

このお寺で暮らす猫たちだ。

野良猫だった子。
誰かに捨てられた子。

それぞれ違う過去を持ちながら、住職さんや参拝客に見守られて、穏やかに暮らしている。

お参りに来るたび、私は自然と休憩所へ足が向く。
猫たちに会うためだ。

その日も、猫たちはいつものように集まっていた。

けれど、その日は少しだけ違っていた。

猫たちの真ん中に、一人の少年が座っていたのだ。

中学生か、高校生くらいだろうか。
まだ幼さの残る顔立ちで、猫缶を開けながら、小さな声で猫たちに話しかけている。

声は決して大きくない。
むしろ、遠慮がちな話し方だった。

「おとなしい子だな」

最初はそう思った。
人前ではあまり目立たないタイプなのだろう、と。

でも、目の前で起きていることは、その印象とまったく違っていた。

猫缶を開ける音がする。
すると、近くで寝ていた猫がゆっくり起き上がる。

木陰にいた猫も歩いてくる。
少し離れた場所にいた猫まで、気づけば少年の周りに集まっていた。

誰かに呼ばれたわけでもない。
追い立てられたわけでもない。

「いつもの時間だね」

そんなふうにでも言うような自然さで、猫たちが寄ってくる。

私は、その光景に目を奪われた。

猫は警戒心が強い。
知らない人には近づかないし、苦手な相手なら距離を置く。
嫌だと思えば、何も言わずに去っていく。

それなのに、この子の周りだけは違った。

猫たちは安心しきった表情で、ごはんを待っている。
少年も、無理に触ろうとはしない。

「順番ね」
「待って」
「はい、どうぞ」

一匹ずつ名前を呼ぶように、穏やかに声をかけていく。

ごはんを奪い合う子がいても、少年がひと言かけると、少しだけ距離を空ける。

長年一緒に暮らしてきた家族のような空気だった。

お参りを済ませたあと、私はもう一度休憩所へ戻り、少年に声をかけた。

「かわいいですね」

少年は少し照れたように笑って、
「かわいいです」
と小さく答えた。

その笑顔は、最初に見た印象とは少し違っていた。

猫を見ている時だけ、表情がふっとやわらかくなる。

好きなものを前にすると、人は自然に笑う。

そんな当たり前のことを、あらためて思い出させてくれる笑顔だった。

そこから、私たちは猫の話をした。

どの子が甘えん坊か。
誰が一番食いしん坊か。
この子は触られるのが苦手で、あの子は膝に乗るのが好き。

少年は一匹一匹の性格を、本当によく知っていた。
それだけ、この場所へ通っているのだろう。

猫の話は、いつしか学校の話になった。

少年が少し笑いながら、ぽつりと口を開いた。

「僕、学校ではあまり話さないんです」

私は何も言わず、続きを待った。

「仲間にも入りにくくて。話しかけても反応が薄いし……」

少し間を置いて、彼は笑った。

でも、その笑顔は、さっき猫に向けていたものとは違った。
少しだけ寂しそうだった。

「透明人間みたいなんです」

その言葉を聞いて、私はさっきまで猫たちに囲まれていた少年の姿を思い出していた。

学校で話せないという彼と、猫たちの輪の中心にいた彼。
どうしても、同じ人物には見えなかった。

「でも、猫とは普通に話せるんだね」

そう尋ねると、少年は少し笑った。

「猫は否定しないから」

その一言に、私は返す言葉がなかった。

学校では、話しかけても返事が返ってこないことがある。
話の輪に入れないこともある。
何気ない一言で笑われることもある。

だから少しずつ、話さなくなる。
話さないほうが、傷つかないから。

でも、猫は違う。

上手に話さなくていい。
面白いことを言わなくていい。
黙って隣に座っているだけでいい。

猫は、そんな彼をそのまま受け入れていた。
そして彼もまた、猫たちをそのまま受け入れていた。

「順番だよ」
「今日はいっぱいあるから」
「そんなに急がなくても大丈夫」

少年の声に、猫たちはごはんよりも、その声を聞いているようだった。

猫は気まぐれだ。
嫌な相手には近づかないし、信用できない相手には触らせない。

それなのに、この子には自分から寄っていく。

ごはんをくれるから、というだけでは説明がつかない。
それだけなら、食べ終えた瞬間に去っていくはずだからだ。

でも、猫たちは食べ終えても帰らない。

少年の隣で寝転び、足元に座り、顔を見上げる。

そこにあったのは、「ごはんをくれる人」と「猫」の関係ではなく、「安心できる相手」と「安心したい相手」の関係だった。

最初は、この子だけが猫に癒やされに来ているのだと思っていた。

でも、違った。

癒やされていたのは、この子だけじゃない。
猫たちもまた、この子と過ごす時間を心地よく感じていたのだ。

人はよく「動物に癒やされる」と言う。
本当にそうだと思う。

でも、この日見た景色は、その続きを教えてくれた気がする。

動物もまた、人を選んでいる。
安心できる人。
怖くない人。
一緒にいると落ち着く人。

そういう相手を、自分の意思で選んでいる。

この少年は、猫たちに選ばれていた。

帰ろうとしたとき、一匹の猫が私をじっと見つめていた。

私は勝手に、その視線にこんな声を聞いた気がした。

「お前、あの子のこと心配してるんだろ」

「少しね」

心の中で答えると、猫はこう続ける。

「でも、俺たちは心配してない。だって、あいつは毎回来るから。嫌なことがあった日も、うれしいことがあった日も、何もなかった日も来る。俺たちは全部知ってる」

「こういう人間を、俺たちは何人も見てきた。学生だった奴、仕事で悩んでた奴、恋人と別れた奴、家族を亡くした奴。みんな、この場所へ来た。そして、いつか来なくなった」

社会人になったのかもしれない。
結婚したのかもしれない。
引っ越したのかもしれない。

理由は分からない。
でも、一人、また一人と来なくなる。

少し切なくなった私に、猫は笑うように言った。

「でも、それでいいんだ。俺たちは寂しくなんかない。だって、あいつらは前に進んだから」

私たちは、別れを悲しいものだと思っている。
もちろん、悲しい。

でも、それだけじゃない。

学校も終わる。
仕事も変わる。
友達とも離れる。
動物との時間にも終わりがある。

人生は、終わることの連続なのかもしれない。

でも本当に大切なのは、終わらないことではなく、終わるまでにどんな時間を過ごしたか、なのだと、
その猫の声は教えてくれた気がした。

少年は、いつかこの場所へ来なくなるだろう。

学校が楽しくなる日かもしれない。
友達ができた日かもしれない。

猫たちは、その日をきっと待っている。

「また来てね」ではなく、「もう来なくても大丈夫なくらい、幸せになれ」と願いながら。

それが、本当の優しさなのだと思う。

帰り道、私は振り返らなかった。
でも、不思議と、また会える気がした。
少年にも、猫たちにも。

そのときはきっと、お互い少しだけ成長している。

少年は人と笑い合えるようになっているかもしれないし、猫たちは相変わらず、のんびり昼寝をしているかもしれない。

そして私は、その光景を見ながら、今日と同じことを思うのだろう。

人は動物に癒やされる。
でも、それだけじゃない。

人もまた、誰かを癒やしている。

そのことに気づけた日、人は少しだけ、自分のことを好きになれるのかもしれない。