SNSで流れてきた動画を見た。
コンビニのレジカウンター内で、店員が喧嘩をしていた。怒鳴り声、緊張した空気、周囲の客が息を呑んでいる。そこに映っていた母親が、子どもの手を引きながら、店員に向かってこう叫んだ。
「子どもがいるんですよ!」
僕はその瞬間、不思議な感覚に囚われた。怒りでも共感でもなく、純粋な疑問として。
なぜ、この人は子どもを外に連れ出さなかったのか。
もし僕が同じ場面にいたとしたら、まず動くのは足だ。子どもの手を引いて、黙って店の外に出る。声を上げる前に、安全を確保する。それが最初にすべきことのはずだ。
喧嘩をしている店員が、叫び声に反応して逆上するかもしれない。巻き添えになるかもしれない。子どもにとって、その場にいることのメリットはひとつもない。
それでもこの母親は、子どもと一緒に、その場に留まった。そして声を上げた。
なぜそうしたのか、動画だけでは母親の内面はわからない。でも、ひとつの仮説が頭から離れない。
「私は正しいことを言っている」と、示したかったのではないか。
「子どもがいるんですよ」という言葉は、強い。子どもを盾にすることで、発言の正当性が増す。誰も反論しにくくなる。もしかしたら本人も気づかないまま、そのレトリックを使っていたのかもしれない。
教育に悪い場面を見せたくない、という気持ちは本物だったかもしれない。でも、その気持ちを行動に変える前に、「自分が正しいと言いたい」という欲求が先に出てしまった——そう見えても仕方ない行動だった。
本当に子どもの安全と教育を守りたいなら、その場から静かに離れることが何よりも優先すべきこと。声を上げることは、その次の話だ。
「子どもがいるんですよ」という言葉を、似たような場面で耳にすることがある。渋滞でクラクションを鳴らされたとき。混んだ電車の中で注意されたとき。子どもを根拠にして、自分の正しさを主張する。
その言葉が、子どものためでなく、自分のために使われているとき——子どもは知らず知らずのうちに、「言い訳の道具」にされている。
本人に悪意はないのかもしれない。でも、子どもを守るための言葉と、子どもを使う言葉は、似ているようで、まるで違う。
ひとつだけ言う。
もしあの場で本当に「どうにかしたい」と思ったなら、本来はもっと大きな行動が必要になるはずだ。
間に入るのか。誰かを呼ぶのか。店の外に出て通報するのか。方法はいくつかある。でも、どれも簡単じゃない。仲裁に入るなら、どちらが悪いかを裁くのではなく、ただ間に立って、両者の話を聞く。時間がかかる。誰かわからない人の怒りを受け止めなければならない。場合によっては、怪我をするかもしれない。
それでも、声を上げるなら、そこまでやって初めて意味を持つ。
「子どもがいるんですよ」と叫ぶことは簡単だ。でもその言葉が誰かの心に届くためには、言葉の重さに見合う行動が必要だ。
子どもは、親の言葉より親の行動を見ている。
「危ない場所からは、静かに離れる」という背中を見せることのほうが、どんな言葉より教育的だと、僕は思う。