僕は、考えるのがあまり好きじゃない。時代についていくとか、新しい機能を覚えるとか、正直めんどくさい。
この前、携帯を買いに行った。「安いやつでいい」——それだけを伝えた。
店員さんは丁寧に説明してくれた。CPUがどうとか、処理速度がどうとか、バッテリーがどうとか。言葉は聞こえている。
でも、意味が頭に入ってこない。例えるなら、外国人にいきなり英語で話しかけられて、分かったフリをしているときの感じだ。なんとなく頷いて、なんとなく相槌を打つ。でも、本当はほとんど分かっていない。「とりあえず『はい』って言っとこう」みたいな。
だから僕は頷いた。考えるのが面倒だったからだ。
よく分からないまま話はどんどん進み、気づいたときにはもう「契約」の段階に入っていた。
「こちらにサインをお願いします」
サイン。
「こちらもお願いします」
サイン。サイン。サイン。
最初はただの作業だった。でも、枚数が増えてくるうちに、だんだん気持ちが変わってきた。
あれ、これ……売れてる人のやつじゃない?
紙を差し出されて、名前を書く。回収される。また差し出される。
……忙しい。
いや、これ、スケジュールが詰まってる芸能人の動きだろ。一気に気分が上がった。名前を書くたびに、ファンが増えている気がした。
「ここにもサインお願いします」(人気すぎない?)
「こちらも確認のうえ……」(そんなに欲しい?)
完全に調子に乗っていた。そのうちちょっとだけ崩して書いてみた。
芸能人っぽく。
でも、誰もそれを気にしていなかった。僕がどんなサインを書いているかなんて、一切見ていない。「書いてもらうこと」が終わればそれでいい、という感じだった。
ひと通り終わったところで、店員さんが聞いてきた。
「ご不明点はありますか?」
「ありません。大丈夫です」
本当は、何も大丈夫じゃなかった。何にサインしたのかも、どんな契約なのかも、ほとんど分かっていなかった。
店を出ると、外は少し暗くなっていた。少し歩いて、ふと思った。
あれ、俺、何にサインしたんだっけ。
さっきまでの自分が浮かんできた。分かっていないのに頷いて、分かったフリをして、サインだけは上手くなっていた自分。なんか、ちょっと悔しいような、情けないような、よく分からない気持ちになった。
帰ってビールを開けた。一口飲んだら、なぜか涙が出てきた。理由はよく分からない。ただ、なんだか止まらなかった。もう一口飲んだ。少ししょっぱかった。
翌日。新しいスマホの電源を入れた。
「初期設定をしてください」「パスワードを設定してください」「顔認証を登録してください」
……
店員さん。これ、昨日説明してたっけ?
いや、たぶん説明してた。かなり丁寧に。でも僕は全部「はい」しか言っていなかった。
結局、また最初から調べることになった。「まあ、一か月くらい使ってれば、なんとなく分かるだろう」そう自分に言い聞かせながら、今日も設定画面と戦っている。