僕はいま、満員電車の中にいる。
朝の通勤ラッシュ。
押し込まれるように乗せられて、身動きはほとんど取れない。
その中で、ひとりのおじさんが、なぜかずっと僕にくっついている。
腕が当たっている。
離れない。
少し横にはスペースがあるのに、なぜか動かない。
じわじわと体温が伝わってくる。
重い。近い。逃げられない。
正直に言うと、かなりきつい。
できれば、今すぐ離れてほしい。
本気でそう思っている。
――
そんな最悪な状況の中で、
なぜかふと、思い出してしまった。
中学生のころのことを。
好きな子がいた。
髪が長くて、少しだけ癖があって、光に当たるとやわらかく揺れるような髪だった。
教室の隅で、本を読んでいることが多かった。
騒がしいクラスの中で、その子のまわりだけ、少し静かだった。
誰かに合わせるでもなく、無理に笑うでもなく、
ただ自分のペースでそこにいる。
その感じが、なぜかずっと気になっていた。
掃除の時間も、その子だけは真面目にやっていた。
誰も見ていなくても、手を抜かない。
床を拭く手つきも、どこか丁寧で、静かで、きれいだった。
それを見ていると、自分もちゃんとしなきゃと思った。
理由はわからないけど、そう思わせる力があった。
――
ある日の朝礼。
体育館に全校生徒が集められて、ぎゅうぎゅうに並ばされていた。
暑くて、息苦しくて、いつもなら早く終われとしか思わない時間だった。
でも、その日は違った。
気づいたら、その子が隣にいた。
ほんの少し、腕が触れていた。
最初は、偶然だと思った。
でも、そのまま、ずっと触れていた。
やわらかかった。
思っていたよりも、ずっとやわらかかった。
その瞬間、さっきまでうるさかった周りの音が、少し遠くなった気がした。
体育館の暑さも、立ちっぱなしの疲れも、どうでもよくなった。
ただ、その数センチの距離だけが、世界の全部みたいになっていた。
離れたくなかった。
このまま、何も起きなくていいと思った。
何も変わらなくていいから、この時間だけ続いてほしいと思った。
たった数分のことなのに、
やけに長くて、やけに静かで、やけにきれいな時間だった。
――
そして、いま。
同じように、腕が触れている。
でも、まったく違う。
やわらかさはない。
安心もない。
ただただ、不快で、落ち着かない。
さっき思い出したはずのあの時間に、
現実が横から割り込んでくる。
混ざってくる。
邪魔してくる。
せっかく思い出したのに、と思う。
こんな状況で思い出したくなかった、とも思う。
――
思い出って、たぶんそれだけで完結しているものなのに、
現実のせいで、見え方が変わることがある。
きれいなままのはずなのに、
いまの感覚が少しだけ混ざってくる。
それが、なんとも言えず嫌だ。
――
できることなら、
あの時間は、あの時間のままで思い出したかった。
静かで、やわらかくて、少しだけ特別だった、あのままで。
――
だから、願いはひとつだ。
頼むから、今すぐ離れてくれ。
せめて、思い出くらいは、
ちゃんときれいに思い出させてほしい。