「ご主人様、枕をください」カミが選んだ、たった1センチの居場所
夕方、ソファに寝転がってスマホをいじっていたときのことだ。
床をトトト、と小さな足音が近づいてくる。顔を上げると、カミが僕の目の前でぴたりと止まっていた。長い耳をこちらに向け、鼻をひくひくさせながら、じっと見上げてくる。
何かを言いたそうな、あの顔だ。
「ご主人様」
「ん?」
「お願いがあります」
姿勢を正して、律儀に前足を揃え直す。ただの気まぐれではなさそうだった。
「どうした、改まって」
カミはしばらく黙っていた。言葉を選んでいるのか、それとも僕の反応を予想して身構えているのか、耳が少し伏せられている。そして、意を決したように言った。
「枕をください」
「……」
一瞬、頭の中が真っ白になった。今、何と言った。もう一度再生してみる。ま、く、ら。
枕。聞き間違いではなさそうだ。
「枕?」
「うん」
「寝るときの、あの枕です」
念を押すように、カミはこくりと頷いた。目は至って真剣だ。冗談を言っている顔ではない。
「いやいや」思わず笑いそうになりながら、僕は手を横に振った。
「うさぎに枕なんて必要ないでしょ」
その瞬間、カミの表情がわずかに曇った。長い耳がすっと後ろに傾き、明らかな不満のサインが出る。
「ご主人様は分かっていません」
低い声——うさぎに低い声も何もないのだが、そう聞こえるくらいの静かな圧があった。
「僕には、必要なんです」
そう言い残すと、カミはくるりと向きを変え、部屋の隅へと去っていった。取り残された僕は、しばらくソファの上でぽかんとしていた。うさぎに枕。いったい何のドッキリだろうか。
「高級枕はいりません」——謎かけは翌日も続いた
事件はそれで終わらなかった。
翌日の夜、僕がリビングで晩ご飯を食べ終えたころ、カミがまた足音を立ててやってきた。今日はやけに自信満々な足取りだ。目の前まで来ると、まるで演説でも始めるように、こう切り出した。
「ご主人様」
「はい、なんでしょう」
箸を置いて、身構える。
「高級枕はいりません」
「……は?」
出だしからして、もう予想の斜め上をいっていた。誰も高級枕を渡そうとしていない。
「快眠枕もいりません」
「オーダーメイド枕もいりません」
一つ一つ、丁寧に否定していく。まるでプレゼンテーションだ。
何かの通販番組を思い出す。「これもいらない、あれもいらない」と否定を重ねたあとに出てくる商品は、だいたい強烈なオチが待っている。
「じゃあ、何が欲しいの?」
半分あきれながら、半分は興味本位で聞いてみた。
カミは、これを待っていたと言わんばかりに胸をぐっと張った。仁王立ち、いや仁王座りとでも言うべき堂々とした姿勢で、宣言した。
「1センチです」
「……」
「はい?」
聞き返しても、カミは同じ表情のまま動かない。1センチ。単位はセンチメートル。何の1センチなのか、まったく見当がつかない。頭の中で大きなクエスチョンマークがぐるぐると回転していた。
4頭身には4頭身の悩みがある
その日はそれ以上何も分からないまま終わったが、翌々日、カミは今度は具体的な説明に乗り出してきた。
「ご主人様」
「はい」
「僕をよく見てください」
「毎日見てるよ」
「もっとです」
「もっと?」
「下じゃありません。上です」
言われるがまま、カミの頭のあたりに視線を移す。すると、真剣な顔でこう続けた。
「4頭身の僕を見てください」
改めてまじまじと見つめてみる。……たしかに、頭が大きい。うさぎというのはみんなそういう体型なのだけれど、面と向かって「見てください」と言われると、その存在感にハッとさせられる。体に対して頭がでかい。かなりでかい。
「まだ分かりませんか?」
「うーん……」
突然、カミは前足をすっと持ち上げ、「ではっ」と、まるで教師が黒板を指すような仕草をした。
「ドラえもんを想像してください」
「ドラえもん?」
急に飛んだ話題に、思わず聞き返す。
「ドラえもん?」
「2頭身です」
「たしかに」
「頭が大きいですよね」
「そうだね」
「そのドラえもんが、枕も使わず、床にゴロンと寝転がっている姿を想像してください」
言われた通りに想像してみる。あの丸い頭が、何の支えもなく床に直接ゴツンと置かれている図。……なんだか、見ているこちらまで首が痛くなりそうだ。
「なんだか寝づらそう」
「でしょう?そうでしょう!」
カミは、してやったりという顔をした。
「僕も似たようなものなんです」
そう言われて、あらためてカミが寝転がる姿を思い出す。
たしかに、あの大きな頭が床に直接ペタンと乗っているとき、なんとなく落ち着きなく見えることがあった気がする。人間のようにふかふかの枕を使うわけではないにしても、頭を少しだけ支えるものがあれば、もっと楽なのかもしれない——初めてそんな想像ができた。
「僕が欲しいのは、高いものじゃないんです」
カミは静かに続けた。
「頭が左右にゴロゴロ転がらないように、ほんの少し支えがあればいい。それだけなんです」
「それが、たった1センチ」
なるほど、と思いかけたところで、僕はふと我に返った。
「いやいや、それを枕と呼ぶか!?」
思わず大きな声でツッコミを入れてしまった。段差のことを枕と呼ぶうさぎ、聞いたことがない。
しかしカミは動じなかった。表情はいたって真面目そのもの。冗談で言っているわけではなさそうだった。
本当に1センチの段差を作ってみた
「そこまで言うなら、一度試してみよう」
半分は好奇心、半分は「どうせ変わらないだろう」という気持ちで、僕は実験に踏み切ることにした。
カミがいつも寝ているマットをそっと持ち上げ、その下に、たたんだフェイスタオルを一枚だけ差し込む。高さを測ってみると、だいたい1センチ。定規を当てても、正直「これで何が変わるんだ」というレベルの、ささやかすぎる段差だった。
「これくらいで変わるのかな」
半信半疑のまま、少し離れたところに座って様子をうかがう。
しばらくすると、足音が近づいてきた。カミだ。いつものように鼻をクンクンと動かしながら、部屋の匂いを確認する。段差のあたりに来ると、その動きがぴたりと止まった。
(あ、気づいた)
そう思った瞬間、カミは段差の周りをゆっくりと一周しはじめた。まるで刑事が現場検証をするような、慎重な足取りだった。
匂いを嗅ぎ、足で軽く触れ、また少し離れる。何かを確かめているようだった。
僕は息を止めて見守っていた。ここで気に入らなければ、また不満げな顔で去っていくのだろう——そんな予想もしていた。
ところが。
カミは段差の前でぴたりと立ち止まると、前足をそっと段差の上に乗せた。もう一歩、体を進める。そして、そのまま迷いのない動きで、ゆっくりと横になった。
「え……もう寝るの?」
思わず声が出た。段差を作ってから、まだほんの数分しか経っていない。それなのにカミは、頭をちょうどその1センチの段差に預けたまま、ぴくりとも動かない。
逃げない。
場所を変えようともしない。
ただ、気持ちよさそうに、目を細めている。
「どう?」
そっと聞いてみると、カミは薄目を開けて、こちらをちらりと見た。
「だから言ったじゃないですか」
「僕には、これで十分なんです」
その顔は、ほんの少しだけ得意げだった。まるで「ほら、僕の言った通りでしょう」とでも言いたげな、満足そうな寝顔。
僕はしばらく、その1センチの段差とカミの寝姿を、ただじっと見つめていた。
高級枕より、1センチ
人間は眠りの質を上げるために、あの手この手で枕を選ぶ。
高級枕、快眠枕、オーダーメイド枕。テレビをつければ、「首をしっかり支えます」「睡眠の質が変わります」というCMがひっきりなしに流れてくる。数千円から、時には数万円もする枕まで、選択肢は数えきれないほどある。
でも、カミが本当に欲しかったのは、そのどれとも違うものだった。
頭を高くするための枕ではない。頭が左右にゴロゴロと転がらないように、ほんの少しだけ支えてくれる場所。
必要だったのは、それだけだった。値段にすれば、たたんだタオル一枚分。手間にすれば、ほんの数分。
うさぎに枕が必要、という話ではありません
ここまで読んで、
「じゃあ、うちの子にも1センチの段差を作った方がいいの?」
と思われた方もいるかもしれません。
でも、そういう話ではありません。
うさぎにも、それぞれ好みがあります。床の上で気持ちよさそうに寝る子もいれば、クッションやマットの端にあごを乗せる子もいます。寝る場所も、寝姿も、その子によってさまざまです。
だから、「うさぎには枕が必要です」と言うつもりはありません。今回お伝えしたかったのは、カミにはたまたま「1センチの段差」が落ち着く場所だった、ということです。
カミは言葉ではなく、行動で教えてくれた
ここまで、カミにはたくさんしゃべってもらいました。もちろん、本当にこんな会話をしたわけではありません。
でも、一緒に暮らしていると、「もし話せたら、きっとこんなことを言うんだろうな」そんなふうに思う瞬間があります。今回の「枕をください」も、その一つでした。
実際のカミは、もちろん何もしゃべりません。
ただ、段差を作ると毎日のようにそこへ行って横になり、気持ちよさそうにくつろいでいました。無理に乗せたわけでも、教えたわけでもありません。自分でその場所を選ぶようになったのです。
その姿を見ているうちに、「あぁ、この子はここが落ち着くんだ」と自然に分かるようになりました。
うさぎは言葉では気持ちを伝えられません。でも、その代わりに、毎日の行動でたくさんのことを教えてくれます。
「今日はここで寝たい」「この場所が落ち着く」そんな小さなサインを見逃さないことも、うさぎと暮らす楽しさの一つなのかもしれません。
今日もカミは満足そうに眠っています
あれからも、カミの「1センチの枕」はそのままです。部屋んぽをひと通り楽しむと、自然と寝る場所へ向かい、いつものように頭をそっと段差へ預けます。
「これで本当にいいの?」
そう聞いても、返事はありません。でも、そのまま目を細めて、気持ちよさそうに体を伸ばす姿を見ると、「これでいいんだよ」そう答えてくれているような気がします。
高級枕でもありません。快眠枕でもありません。オーダーメイド枕でもありません。カミが自分で見つけた、たった1センチの心地よい場所。それが今でも、カミのお気に入りです。
今日も私は、その寝顔を眺めながら思います。
「あの1センチを見つけたのは、私じゃなくてカミだったんだな」と。
そして今日も、カミは満足そうに眠っています。