猫が教えてくれたこと。ずっと一緒じゃないから、今を大切にする
お寺へ行った。
病気平癒で有名なお寺で、山に囲まれた静かな場所だ。
前には田んぼや畑が広がっていて、季節によっては刈り取った稲を焼く煙の匂いが風に乗って流れてくる。
私はあの匂いが好きだ。
どこか懐かしくて、子どもの頃に戻ったような気持ちになる。
お寺へ続く階段を上ると、小さな休憩所がある。
椅子とテーブルが置かれ、自動販売機があり、そこで一息つけるようになっている。
そして、その場所には猫がいる。
たくさんの猫たちだ。
野良猫だった子もいる。
誰かに捨てられた子もいる。
住職さんや参拝客に可愛がられながら、そこで暮らしている。
猫好きの間では少し有名なお寺らしい。
その日も猫たちは集まっていた。
そして、その中心には一人の少年がいた。
中学生か高校生くらいだろうか。
猫缶を開けて、小さな声で猫たちに話しかけている。
最初に見た印象は、
「気の弱そうな子だな」
だった。
どこか自信がなさそうで、背中を丸めている。
私はお参りを済ませたあと、猫たちのところへ行った。
猫は人慣れしていて、すぐに寄ってくる。
撫でているうちに、その少年が気になった。
「かわいいですね」
そう話しかけると、少年は少し照れながら、
「かわいいです」
と笑った。
そこから猫の話になり、お寺の話になり、気がつけば学校の話になった。
彼はいじめられていると言った。
正確には、今は無視されることのほうが多いらしい。
仲間に入れてもらえない。
話しかけても反応が薄い。
透明人間みたいな毎日だと言った。
「自分は地味なんです」
「声も小さいし」
「人と関わるのも苦手で」
「特技もないし」
そう話す彼を見ながら、私は不思議な気持ちになった。
だって、今ここにいる彼は、そんなふうに見えなかったからだ。
猫たちの前にいる彼は別人だった。
「順番だよ」
「待って」
「そっちはダメ」
「ゆっくり食べな」
そう言いながら猫たちをまとめている。
しかも猫が従う。
猫というのは気まぐれだ。
嫌なら近づかない。
気に入らなければ無視する。
それなのに猫たちは彼の周りに集まり、彼の声を聞いていた。
その光景を見ながら、私は少し羨ましくなった。
私は猫を撫でている。
猫も寄ってくる。
でもそれは、
「撫でてもいいよ」
くらいの距離感だ。
彼は違った。
猫たちは彼を待っているように見えた。
彼が来ることを知っているように見えた。
そして彼も、猫たちのことをよく知っていた。
きっと何度も来ているのだろう。
私はそこで、ふと思った。
この子は猫に癒やされに来ていると思っていた。
でも本当は違うのかもしれない。
癒やされているのは彼だけじゃない。
猫たちも彼を待っている。
人間はよく、
「動物に癒やされる」
と言う。
もちろんそれは本当だ。
でも、人間だけが選んでいるわけじゃない。
猫だって選んでいる。
この人は好きか。
安心できるか。
信頼できるか。
一緒にいて心地いいか。
そして彼は、猫たちに選ばれていた。
帰ろうとしたとき、一匹の猫がこちらを見ていた。
なぜだろう。
その視線が妙に気になった。
そして私は勝手に、その猫の言葉を想像した。
「お前、あの子のこと心配してるのか?」
そんなふうに言われた気がした。
「でもな」
「俺たちは心配してない」
「だってあいつは毎回来るからな」
「学校で嫌なことがあったとか」
「友達がいないとか」
「そんな話もする」
「正直、聞いていて面白い話じゃない」
そこで私は少し笑った。
猫らしい。
でも猫は続ける。
「だけどな」
「俺たちは知ってるんだ」
「こういう奴を何人も見てきた」
「学生だった奴」
「仕事で悩んでた奴」
「恋人と別れた奴」
みんなここへ来た。
そして、みんないつか来なくなった。
社会人になったのかもしれない。
結婚したのかもしれない。
引っ越したのかもしれない。
人生が忙しくなったのかもしれない。
理由は分からない。
でも、いつか来なくなる。
それを猫たちは知っている。
だから、必要以上に期待しない。
でも、だからこそ今を大切にする。
来るたびに喜ぶ。
撫でてもらう。
一緒にいる。
今ここにいる時間を、思いきり楽しむ。
だって、いつか終わるからだ。
そして猫は、最後にこう言った気がした。
「だから俺はあいつに言いたいんだ」
「早くここに来なくてもいい人間になれ」
「俺たちのところへ逃げてくるんじゃなくて」
「自分の世界を生きろ」
「俺たちも猫の世界で生きる」
「お前は人間の世界で生きろ」
「そして何年か後に」
「もっと強くなって」
「また来い」
私はその言葉を想像したとき、なぜか胸が熱くなった。
人生には、ずっと続く出会いもある。
でも、ほとんどの出会いはそうじゃない。
学校も。
職場も。
友人も。
恋人も。
動物との時間も。
多くは途中で終わる。
だから人は悲しくなる。
でも、終わるから意味がないわけじゃない。
むしろ逆だ。
終わりがあるから、今が大切になる。
あの日の少年も、いつかここへ来なくなるのだろう。
そしてそれは、きっと悪いことじゃない。
猫たちの願いも、本当は同じだと思う。
「また来てほしい」
よりも、
「もう来なくても大丈夫なくらい幸せになってほしい」
そのほうが、ずっと深い愛情だからだ。
帰り道、私は振り返らなかった。
でも不思議と、あの猫たちも、あの少年も、また会える気がした。
その時はきっと、お互い少しだけ成長した姿で。