「もし、ペットと話せたら楽しそう」

たぶん、動物を飼っている人なら、一度は考えたことがあると思う。

僕もある。

うさぎのカミと暮らしていると、とくにそう思う。

ご飯を出せば走ってくるし、機嫌がいいと近くでゴロンする。

何か言いたそうにこちらを見ていることもある。

だから、つい想像してしまう。

もしカミと普通に会話できたら、どんな毎日になるんだろう、と。

たとえば、仕事から帰宅した僕にカミがこう言う。

「おかえり。今日、遅かったな」

可愛い。

これはかなり可愛い。

さらに、

「風呂、先に入るか?」

などと言われたら、たぶん僕は泣く。

でも、よく考えると、問題もある。

会話できるということは、“本音”が全部わかるということだ。

今までは、

「なんで急に走り回ってるんだろう?」

「なんで僕を見るんだろう?」

と、想像するしかなかった。

でも、話せたら答え合わせが始まってしまう。

たとえば、カミがこう言い出す可能性がある。

「おい、ご飯まだか」

「チモシー飽きた」

「今日はイチゴ気分だ」

急に態度がデカい。

しかも、うさぎは見た目が可愛いので忘れがちだが、意外と我が強い。

自分の嫌なことは嫌だし、気分が乗らないと普通に無視してくる。

つまり、会話できるようになった瞬間、“可愛い小動物”から、“意思の強い同居人”に変わる可能性がある。

そして僕が一番怖いのはここだ。

今まで僕は、

「カミは僕のことが好きなんだろうな」

と思って生きてきた。

しかし、話せるようになったカミが、

「別に普通」

とか言い出したらどうしよう。

立ち直れない。

さらに怖いのは、恋愛相談である。

ある日、僕がカミに相談する。

「実はさ、好きな人がいるんだよ」

するとカミが言う。

「どんな女だ?」

なんかもう、口調がうさぎじゃない。

「優しい人だよ」

「顔は?」

「可愛い」

「胸は?」

急に最低なことを言い出す。

そして僕が、

「そこ気にしてないから」

と言うと、

「お前が気にしなくても、俺は気にする」

とか言い出す。

たぶん、カミは女性に抱っこされたいだけなのだ。

特に胸が大きい人に。

フワフワした見た目なのに、中身だけ妙におじさんくさい。

でも、ここで僕は気づいた。

もしかしたら、“話せない”からこそ、僕たちは動物を純粋に可愛いと思えるのかもしれない。

人間同士は、言葉で本音を知ってしまう。

だから傷つく。

「あ、そんなこと思ってたんだ」

「そんなふうに見てたんだ」

と知ってしまう。

でも動物は違う。

本音がわからない。

だから僕たちは、

「甘えてくれてるのかな」

「嬉しいのかな」

と、いい方向に想像できる。

そして、その“想像する時間”そのものが、たぶん幸せなのだ。

カミが近づいてきた。

なでてほしいのかもしれない。

でも、本当は、

「そこ邪魔」

と思っているだけかもしれない。

真実はわからない。

でも、わからないからこそ、僕は勝手に幸せな解釈ができる。

それでいいのかもしれない。

人間関係でも同じだ。

全部を言葉にすると、壊れることがある。

逆に、全部わからないからこそ、続いていく関係もある。

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もし本当に会話できたら、僕は一度、聞いてみたい。

「カミ、僕のこと好き?」

するとカミは、たぶん少し考えてから、

「まあ、嫌いではない」

と、絶妙に傷つく言い方をしてくる。

「お、じゃあ結構好きってこと?」

と期待した瞬間、

「でも、パパイヤ持ってる時のお前は、かなり好き」

と続ける。

そして、さっきまで距離を取っていたくせに、急に僕の手をペロペロし始める。

……わかりやすすぎる。

どうやら僕は、“大好きな飼い主”ではなく、“おやつスポンサー”として評価されているらしい。

人間界でいうと、

「あなたといると楽しい」

ではなく、

「あなたが予約する焼肉が好き」

と言われている状態である。

かなり悲しい。

でも、動物と話せない今なら、

「きっと甘えてくれてるんだ」

と、自分に都合よく解釈できる。

そう考えると、やっぱり動物とは、会話できないくらいがちょうどいいのかもしれない。

本音がわからないからこそ、僕たちは勝手に幸せになれるのだから。